昭和46年07月25日 朝の御理解



 御理解 第49節
 「信心は相縁機縁。」

 不思議なまでの御縁が、様々なおかげに展開して行くそれが御信心です。それが御神縁と言うものだと思います。縁を受けたばかりにそれが一生の災難の元になると言う様な事もある。信心と言うのは、そういう様々な相縁機縁に依って結ばれて、それが全部おかげの元。全部御神縁として頂けれるおかげを受けて行く事にならなければいけません。果して縁という縁が、全て有難いと言う事になっていっておるであろうかと。
 縁を結んだ縁が出来た。その事がかえって不幸せ、不幸の元になっておる様なことはないであろうか。どこに間違いがあれば縁が縁としての、おかげになっていかんのであるかと言う事を、思わなければいけません。まことに縁というものは不思議なものである。その縁を私共が天地自然の御恩恵として、受けさせて頂く所から、それが御恩恵としてのおかげになって来る。一般に腐れ縁といった様な事を申します。良くない縁なんです。例えば、赤の他人同士が夫婦になる。どっちも余り気に入らん。
 けれども、何か色んな都合で、別れようにも別れられない。そういう場合、俺とお前は腐れ縁だという様なことを申します。こういう事になったんでは、折角の天地の御恩恵が御恩恵と感じられない。天地自然の御恩恵として、それが生かされる所に、私は御信心があると思う。成程始めの間は、さほどにも思わなかったけれども、段々縁が深うなって行くに従って、本当に御神縁だったなぁと思わなければおられない程しのおかげになってこなければならん。又、そうなって行けれるのが御信心である。
 いわゆる、機縁が相縁になって行くのである。不思議な縁。昨日夕方、夕食させて頂いておりましたら、壱岐の郷ノ浦教会の末永先生のところの奥さんが子供を連れて、突然参拝のおかげを頂いた。丁度お食事の時であったから一緒に頂きましょうと言うて、一緒に頂いたのですけれども。子供達も夏休みになりましたし自分の主人の妹でありますところの、むつ屋に縁になって参っております佳世子さんが、丁度その前日出産のおかげを頂いた。男の子を安産のおかげを頂いた。丁度二十三日のお日柄。
 ここではお月次祭のお日柄と、大事にさせて頂く、その日に出産のおかげを頂いた。そこへ昨日兄嫁に当たります訳ですね、佳世子さんから申しましと。が病院に入院してからの事でございますから、私が御用を頂きましょうと言うて、末永先生夫婦で話し合って、今日は出て参りましたと言う。大体がお産婆さんのあれを持っておられるらしいですね。お前が行ってくれるなら、これが一番助かる。そんなら行ってくと言う事で、昨日はこちらへ見えられました。
 まぁ考えてみると不思議な縁です。むつ屋の信司さん、嫁さん貰わんならんと言うて、あっちこっち随分見にも歩きましたし、もう九分九厘出来た様にあって、もう何と申しますか、くぎ茶やら入りましてからね、崩れるのですからね。もう本当に人間の色々な知恵、良かろう様にあってもそこから何とはなしに、崩れた時には情けない。どうしてこげな事になるじゃろうかと思いますけれども。決してこれは神様の御都合に違いはないと頂き抜いて行くところに、私はより良い縁が生じて来ると思います。
 そしてもうそれこそほんの足元に、足元にと言うが香世子さんもここにずっと、一週間に一遍ぐらいは、福岡に勤めておりましたから、兄さんがここで修行しておりますから、ずっと参拝をして来る。良い娘さんだなぁと言いながら誰もこれを、信司さんにという様な話、それが何かたまたま佐田さんの、先生あの末永さんの妹さんの香世子さんなどうでしょうかと。私もなにか本当にほんなこつ、こりゃ良か縁ばいと言うてから、お取次させて頂いた。おかげで話は、とんとん拍子に進みまして。
 おかげを頂き、そしてもう一年になりますでしょうか。おかげでむつ屋の、た後とりが、それこそ、珠の様な息子の子に恵まれた。末永先生の奥さんが、どこのどういう方かは知りませんけれども。まぁ縁と言うものは不思議なもんだ。その縁と言うものを、遡って行きよると、もう実にまた不思議な事になって来る。大体ここには全然関係のあって良かろう筈のないむしろ縁が出来た事に依って、問題すら起きた位なことでございます。手続きが全然、全然違うのですから。
 手続きと言うが、福岡を親教会とされる。只私と善導寺。善導寺の奥さんが福岡から見えておる。そういう御縁に何とはなしに、私との縁が出来て、壱岐のいわば海を隔てた壱岐から、浮羽郡の田主丸と、それこそ聞いた事もなかった様な所へ縁になって来ておる。しかもそれが本当にこういう良縁のおかげを頂いてと言いよったら、子供までなす様なおかげを頂いた。いよいよこの縁は深いものになって行くだろう。いよいよ有難い、尊い事になって来るだろう。
いわゆる神様の天地自然の御恩恵、その御恩恵に依って、それを御恩恵として受けて行くところに、それはいよいよ有難い有難い縁になって行く。昨日信司さんが、子供のお名前を頂きたいと言うてお参りして来た。そのお願いをさせて頂いておりましたら、幹三郎の姿をこう頂いた。ははぁこれは幹三郎と縁が出来るなと思うた。だから幹三郎の幹と言う字を頂いて石井幹夫と頂いた。石井幹夫これがどういう縁に発展して行くか分からんですね。問題は、そこの時点時点をです。
 有難くさえ頂いて行けばです、その縁はいよいよ限りなく有難いものに、末広に広がって行くのです。それをひとつ間違うと、結局腐れ縁になってしまう。その腐れ縁にしたり、なって行く様なことでは、折角の天地大自然の御恩恵が御恩恵として受けられなくなって来る。真に機縁である。しかもその機縁が、所謂相縁になって行く。信心は相縁機縁。信心はそういう縁を縁として生かして行くことを、教えられるのが信心である。袖すり合うも多少の縁。これは仏教の言葉でしょうが、袖すり合うも多少の縁。
 そこから不思議な、本当に不思議な事ですねという様な縁になって育って行く。これはまぁ私と皆さんとの、一人一人の出会いと言うことを思えば思う程、不思議な不思議な縁である。そして、切っても切られんという様な仲になっていく。それは有難いと言うこと、いわゆる、有難いおかげに育って行くからである。実に自然に、私と縁が出来る。機縁じゃない。自然に縁が出来ておっても、その自然と思われる、その縁を向こうから切っていくなら仕方がない。
 例えば私共は兄弟二人ですからなんですけれども、父の兄弟は六人ある。母の兄弟が二人。いうならば私から言うと、叔父であったり叔母であったりという様な縁が、それこそこれは自然に出来てきておる。いうならば赤の他人ですから、ここでこの様に助かって行っておるのにそういう血では濃い、叔父とか叔母とか従姉妹とかという様な、自然の縁を頂いておってもそれを生かそうとしない。生かそうとしない所か、何とはなしに合楽には寄り付けんごとなっち言うごたる風で親戚の者が遠ざかって行く。
 何かある時でばしなからなきゃ会えん様になって行きよる。惜しい事だと思うね。この様におかげで、本当に人間が幸せになって行けれる縁を、自然に頂きながら。それを縁を縁として、いわば相縁であるものが機縁になって行ってしまう。いうならまぁ腐れ縁という事になるかも知れません。そんなに叔父だ叔母だという様な近い仲にあってもです。従兄弟同士と言うてもです、もう他人より浅ましゅうなって行く。まぁ昔から従兄弟の切れ端は他人の始まりという様な事を申しますけレども。
 そういう自然の縁がもう他人から他人、何にも関係のない程しにまで変わって行くかと思うと、赤の他人の誰彼がね、ほんなら私と皆さんの場合等は、それが不思議な機縁に結ばれて、それが相縁に育って行きよる。成程信心は相縁機縁だなと思う。ですから私共がですね自分の周辺に、例えば隣同士にあっても、やはり縁が結ばれなかったら、もう家の隣はしっかり金光様に参らっしゃると言だけのこと。それが何かの縁でです。昨日はある方が町内に住宅に入っておられます。
 それがすぐ隣の方が普請を思い立たれた。そこの屋敷一杯に普請を建てて、地形もすみ、家も大体建った、殆ど。そしたら、隣の人が、まぁそげな所に建てて貰っちゃいかんと言うて、役場の方へ、口上を言いに行った。そこで役場としては、大体許可なしに建ててはならんから、その家を全部取り壊せと言うところにまでなってしまった。それをまぁ裏に当たりましょうか、の方が、ここへ日参して来られる方が、本当に不思議な縁で、この方も縁が出来た訳ですけれども。
 その方達が、これ程立派に家も出来ておるのに、それを取り壊さになきゃならんという様なところにまで険悪になっておるから、どうぞ円満におかげを頂かれる様に、双方のお届けをされまして、また役場との折衡も出来る様にと言うてお願いをなさった。だから先方の者は、何にも知らん。願われておる事も、取り次がれておることも知らない。けれども、そこからね、御神縁が生じて来る。
 これは昨日の事ですから、まぁだどういう事になるか分かりませんけれども。それぞれに御神米が下がって、どうぞ円満におかげを頂く様にと言うことであった。だから裏表に住むとか、隣同士に住むという事にはね、もうすでに、目には見えない縁と言うものが、ちゃんと隣に住まわねばならんという縁があるのです。向いに住まわねばならんという縁があるのです。ですからね、何かの機会を、ちゃっと祈らせて頂いて、それが本当の意味に於いての御恩恵であり、御神縁であると分からせて頂く程しにです。
 やはりその事を祈らなければいけないと思うです。これは私の、御商売をさせて頂いておる時代でしたけれども、お得意さんが出来ますとね、はぁもうここにこの人は、御神縁に結ばれたという気がするんですよ。向こうは知りません。けれども、その人の名前を聞いたり、家族中の名前を聞いたり、何か困ったことち言いよると、その困ったことを、よく聞いておいては、お取次を願って、お願いをさせて貰う。
 それがこちらの信心不足の為にです又は力がないために、それは空しい縁になって行くのが多いですけれど、どこにどういう縁のひっかかりが出来るやら分からない。ですから、そこんところをです、袖すり合うも多少の縁である。隣同士住むということも縁である。だから、向いの人達は、えらい険悪になってきて、どげな風になるじゃろうかと言うて、高見の見物をするといった様なことでは、いけないと思うですね。裏表に住まわせて頂く縁をです。やはり御神縁と頂かせて貰う。
 御神縁に依って何かの機会に、それが有難い事に展開してくる程しのおかげ。昨日御神米を持って行かれた。どうぞ円満にと言うて、先生が言うて下さいましたから、どうぞお願いなさって下さいとまぁそう言うてですが、向こうも信心はなくても喜ばれるだろうと思うですね。赤の他人ただ裏表に住んでおると言うだけで、願うて下さってあると言うのですから。これは先日吉井の熊谷さん、所謂うち向いに住うておられる。
 昔は親戚でいろんな、それこそ何か財産のことでもう十何年だかね、裁判をし続けられたといった様な御親戚がある訳です。その為にここに御神縁を頂かれた様な事です。それが最近では、そこの事が祈らなければおられない。そこから例えばこの頃からの大祓式の時に、向こうに自動車を新しく買われたから、その新しい自動車の事をお願いなさった。そして御神米を持って行ってやられた。向こうでは大した事でも思うていなかっただろうけれども、それは有難うございますと言うてねそれを向こうも受けられた。
 それから何日目かその自動車を知人の方がですね、ある人が借りに見えた。所が貸されたのは良かったけどもね、それが事故というより居眠り運転かなんかでしょうね。とにかく十五六メートルもある所に落ちた。それがもうそこん所を転がって落ちていってるから、自動車は大破損である。所が中に乗ってあった人はカスリ傷一つしてなかった。そして死人がないからだけれども、自分方から貸した自動車を壊されたばっかりだけども、考えて見るとほんにあの時あの御神米を、特別御祈念のあった。
 交通安全の札を自動車の中にお奉りしておった。自分方の自動車は、そぜたけれどもまぁ人命に、いやむしろカスリ傷一つしていなかったと言う事。自分方は自動車こわされたけれども、そこで今度は、その話を聞かれた。自動車を借って行った人がです、もう熊谷さんから、自動車のことをお願いしてあったげなから、家の息子は助かったと言うてお礼を申し上げて下さいと言うてお初穂を託って来た。縁が一つの真心、一つの縁。只うち向いに住んでおる。
 昔は仇同士の様にしておったんだけれども、信心が段々分かって、その事とても、やはり縁が、いうなら悪縁とでも思われる様な縁が、今度は反対に良い縁に変わってきた。そしてその自動車を借った向こうにまで縁が出来て行きよる。しかもそのおかげで、命拾いをしたという様なおかげになってきている。私共は本当に袖すり合うも多少の縁。その縁をです本当に願わせて頂けれる、御神縁いわゆる天地自然のご恩恵がです、そこにあることを気付かせて頂いて。
 それがね御恩恵として感じられる所、おかげで助かりましたと感謝される程しの御神縁に進展して行くおかげを受けなければいけない。隣同士に縁を頂いたばかりに毎日不愉快な思いをしたり、隣同士いわば家を建てたばっかりに喧嘩になると言った様な事に、あわやなろうとする所をです。裏に住んでおった方がそれを願うている。どうぞ双方円満に。それは成程、役場に届はしてはなかったろうけれども、そこん所は役場にもしっかりお詫びをなさって、隣にも本当に心からの了解を得られて。
 是だけの縁も出来ておるのであるから、円満にと言う事になれば、そこから隣同士がまた有難い事になるだろう。◯◯さんあん時に神様にお願いして頂いたおかげで、こういう有難い事になったと言う縁に、これが展開して来るやも分からん。それを願わせて貰う。成程、信心は相縁機縁である。只相縁機縁と言うておるだけじゃない。そういう縁をすぐ自分の隣の人に感じられるおかげ、自分とのかかわり合いが出来たならば、もうその方との御神縁を頂かれたと思い込ませて頂けるほどしの、思い込みを以って。
 その人のことが祈られれる。そのところから機縁が相縁になり、相縁が御神縁となって結ばれて行くようなおかげを受けると言う事がです。これはお道の信心をさせて頂く者の責任じゃなかろうかと思う。そこまでお互いが自分のことだけで願うことが、頼むことが、信心だといった様な考え方から、いわゆる信心は相縁機縁と教えられるのであるから、信心はその様な縁を、縁として生かして行くことなのだ。その内容として、そういう真心での祈り、お取次の働きというものが。
 そこから生じて来る様な、有難い事に展開して来るおかげになって、御神縁と思わせても貰い、言わせて頂けるほどしの有難い縁になって行かなきゃならん。私共でもそうです。もう考えてみれば、不思議で不思議でたまらん縁。金光様の御信心を頂くと言う事は。久留米の初代が、まだ六つ門で仮布教所、布教をなさっておられる時に、大変に人が助かった。その方の叔父さんに当たる方が、田主丸の向こうの野田という所がある。そこから月に何回か、必ず両方にめごを担うて。
 田主丸から久留米の方へ何回か、そこを通いなさる。私の方がちょうど茶店の様な事をしておりましたからもう何時も、椛目は途中で一服して行くところと決めておられたらしい。それでそこでお茶を一服よばれてから、あなたは何時もあっちへめご担うちから、お野菜やら何やらこう担うて、隣から私の叔母にあたります。まだその叔母が娘時代に椛目におった。私の父の姉であります。があぁたはようあっちへ行きよりなさるが、何処へ行きよりなさっとですかち聞いたげな。
 そしたら久留米の六つ門に、こう言う有難い神様が出来られて、月次祭たんべんに、お供えのお野菜を、両方の四角いめごにね担うて、田主丸の野田から久留米まで、月に何回の月次祭のたんびに必ず参られた。そげな有難い神様なら私も一遍、連れて参って下さいと言うたのが縁の始り。そして久留米の初代の親先生に、私の叔母に当たります人が御神縁を頂いて、私の婆であるところの、私から言うと、婆がおかげを頂き、隣の田中の叔母ですね。叔母がまた御神縁を頂き、この様にして現在の合楽が生まれた。
 もう不思議な考えて見ると不思議なこと。もしあの時分に、ささやかな茶店と言った様な事だけども、茶店をしていなかったら、今に縁と言うものはなかったかも知れん。だから、その時点時点、その事が実は有難いのである。だからそこんところの有難い、いわば、おかげを頂かせて、その時点をね。その時点を大事にいよいよして行くと言うおかげを頂いて、尊いことに有難いことになって行くおかげを受けて行かねばならんと思うのでございます。
   どうぞ。